結婚式に行きました4

 乾杯のあと、会場はやや暗くなり、後方のスクリーンでスライドショーが始まりました。J-POPの名曲たちと共に、まずは新郎新婦それぞれの幼少期から現在までを振り返り、二人の出会い、お付き合いに至る経緯、デートや旅行などのキラキラとした思い出、両親に婚約の報告をする場面など、私の知らない表情をしたYと、旦那さんが次々と大画面で映し出されていきます。二人の当時の心情が、文字で添えられる演出により、会場からは、その都度リアクションが起こります。

 その時、私の脳内では、Yのポジションを自分に置き換えた想像が繰り広げられていました。まず、自分のツラがどんどん映し出されるスライドショーに、感動系のJ-POPは全く合いません。むしろポンチャックディスコがぴったりです。J-POPから選ぶとすれば、YMOのCosmic Surfinでしょうか。三枚目にもなりきれず、ほんのりお洒落さを出そうとする根性に、会場の人たちはきっとイラっとするはずです。


李博士(イ・パクサ)のポンチャックディスコ - YouTube


YMO - Cosmic Surfin(Live in LA 1980) 高音質版! - YouTube

曲はいいとして、問題なのは小学校入学から中学、高校時代の写真が残っていないことです。かつて多感な時期に、黒歴史になる前に全て抹消せねばと大量に捨ててしまったことがありました。かといって、学級写真の私をスクリーンサイズまで引き延ばすのは画素数的に無理がありますし、卒業アルバムの、競技大会でボール投げをしている極めてブスな瞬間の写真(これを選んだアルバム委員の悪意を感じます。)を使用するのも避けたいです。高校の卒業式の写真は、着ぐるみで出席したため、もはや誰なのか分かりません。しかし乳児から幼児、幼児から20代半ば、という流れはあまりにも不自然すぎます。無理やり繋いだところで、20代の写真も、親しい友人たちに送るために自撮りした、白目の写真ばかりです。それに、もし私がデートに行ったとして、撮るものといえばきっと、変な看板や、道に落ちている物や、デートの相手を盗撮した写真くらいでしょう。以前友人と三人で旅行した際の写真も、大半が友人の楽しむ姿で占められています。ホテルの部屋で、だらだらとクイズ番組を見ながら、各々テレビに向かって回答する様子の動画も撮りました。これもまた良い思い出なのですが、どうしてでしょう、カップルがディズニーランドでピースしたり、台湾旅行で楽しそうに小籠包を食べる様子とは明らかに何か、熱量のようなものが違います。

 スライドショーは順調に進み、ウルフルズのバンザイが流れた時のことです。向かいの席に座る同級生が、歌詞に感動したらしく、彼女は周りの同級生に言いました。

「めっちゃいい曲…なんかこれ聴いてたら◯◯(おそらく彼氏)に会いたくなってきちゃった…。」

そこから私とMを除いての恋バナが始まりました。聞く気は無くとも同じテーブルなので、勝手に耳に入ってきます。十数年ぶりに聞いたわ、という名前がたくさん飛び交い、誰が結婚したとか、誰と誰が付き合ってるとか、地元の同級生たちの話をしていました。中学時代の記憶を闇に葬り、今ではYとMとしか交流を持たない私とは違い、今も多くの繋がりがある、昔も今もリア充の彼女たちに更なる壁を感じました。そんな塩辛い会話を調味料にして、ただ黙々と飲食に耽るしかありませんでした。Mは瓶ビールをゴクゴクと飲んでいました。

 

 その後Mと化粧室に行き、ぞんざいに連れションをしました。スッキリしたのは良いものの、鏡に映る姿を見て驚愕、そして落胆しました。そこに映っていたのは、醜い妖怪ハナクソ女でした。先程の式で涙を我慢し流れたチグリスとユーフラテスの名残が、大量のハナクソと化していました。よく言えば遺跡、悪く言えばハナクソです。私は今までずっと、このクソたちを二つの穴にパンパンに詰めたまま、人々と会話をしていたのかと思うと恥ずかしく、やるせない気持ちでいっぱいになりました。妖怪ハナクソ女に祝われる新婚は一体どんな気分でしょうか。全くひどいものです。

 気を取り直して会場に戻ると、ケーキ入刀や、同僚による余興などが行われました。その度に流れる音楽に合わせ、おそらく新郎側の親戚でしょうか、一人の幼女が全力で踊っていました。あまりにも全力で、何度もパンツが丸見えになっていたので、私はMに、

児ポ児ポ!」

と伝えると、Mは少しだけ嫌な顔をして、

「そういうとこだよ。」

と諭すように言いました。

 新郎新婦のお色直しのため、一旦会場を出る際に、付き添いのお手伝いとしてYの大学の同級生の名前が呼ばれました。司会の女性のアナウンスによると、度々Yから恋愛相談を受けていたとのことで、それを聞いた私とMは顔を見合わせて、

「うちら恋愛相談なんて受けたことないね…。」

「そっか…。そりゃそうだよね、相談したとこでね…。」

と、なんだかよく分からない寂しさを共有しました。

 お色直しを終え、綺麗なブルーの衣装に身を包んだ新郎新婦は、ご両親へ贈り物を渡し、Yが手紙を読みました。この時、どういう訳か私は完全に、Yのお父様に感情移入しており、Yが読み上げる一言一言に対して、そうだね、ありがとう、パパもだよ、と心の中でつぶやいていました。そして嬉しさと、寂しさと、虚しさ。映画やドラマも、ついつい主人公より、親に自分の気持ちを重ねて観てしまうので、私は若々しい女であることを放棄しているのかもしれないと思いました。素敵なお手紙をもらえて、パパうれしかったよ。

 エンディングムービーが流れる中、向かいに座る同級生が、他の同級生に、

「あんたたちよくそんなに食べれるね。」

と言っていたのを耳にし、自分が言われている訳ではないのは分かっていましたが、少し心が痛んだので、持っていたフォークを置き、もうほとんど食べてしまったデザートを、申し訳程度に二口ほど残しました。

 

 気まずかった同級生たちと別れ、二次会会場経由、札幌駅行きの小型バスに乗り、途中でほとんどの乗客が降りたので、私とMも降り、先に降りた集団を追うと、彼らは全く別のビルに入って行ったので、なんでだよ!なんなんだよ!どこだよここ!と二人で軽くキレました。会場までの道を調べるとやや遠く、普段スニーカーしか履かない我々がヒールで歩くにはつらい距離でした。足が痛いと連呼しながら、居酒屋やカラオケの勧誘をかわし、珍妙な歩き方の若い女二人が夜のすすきのの街を練り歩きました。

 なんとか会場に到着しましたが、そこはかなりパーリー感が強めで、壁一面が大きなコロナ瓶と海の写真になっていました。四人掛けの席にMと二人で座りましたが、会場はほぼ満席の中、私達と相席を試みる者は誰一人おらず、周りの目を気にすることもなく二人でたくさんの酒を飲みました。テーブルにはクラッカーが4つ置いてあったので、新郎新婦が登場したタイミングで、全部鳴らしたのですが、中から出てきたカラフルなフサフサは全て前方の男性の頭に乗っかってしまい、キョロキョロと辺りを見渡す男性を横目に、私は内心ヤベ〜!と思いながらも、すました顔で知らんぷりを決め込むしかありませんでした。

 シャンパンタワーや、クイズなどの催しが行われ、(Mはクイズに正解し、旅行券をもらっていました。)ひと段落したところで、新郎新婦の元へ行きました。

「この空間で私が一番クズで底辺だけどお祝いできて良かった。」

と、無意識のうちに、口から出てしまい、

「そういうとこだよ。」

と、Mに釘を刺されました。本当にそういうところです。それから一緒に写真を撮るために並んだのですが、ナチュラルに新郎と新婦の間に割り入ってしまい、おかしなことになってしまいました。そういうところです。それでもYは笑ってくれるのです。人望が厚く、多くの人に祝福される主役でありながらも、家族への感謝の気持ちや、ゲストへの心配りを大切にする、素晴らしい人間なのです。Yの欠点を挙げるとすれば、欠点がないところです。自分の器の小ささについて考えているうちに二次会は終了し、Mはパンプスを脱ぎ、駅までの道を裸足で歩き始めました。やはり世界を股に掛ける女はスケールが違います。自分のスケールの小ささについて考えているうちに駅に着きました。地下鉄とタクシーに乗り、地獄のミサワ先生のスタンプを多用するくらいしか使い道のないLINEを交換し、Mと別れました。

 

 結婚式に参加して感じたことは、Yの素晴らしさ、自分に披露宴は出来ないということ、婚姻とは一体何、以上の三点です。

 

 実家のデジカメを借りたのですが、東京に戻ってからデータを確認したところ、まともに撮れている新郎新婦の写真が一枚も無かった上に、勝手にダサい日付が入る設定になっていました。

 写真はテーブルに落ちていた花をパンに刺して遊んでいた様子です。

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結婚式に行きました3

 式が終わり、外の階段で写真撮影が始まりました。司会の女性スタッフのアナウンスにより、新郎新婦とご両家、新郎新婦と同僚、新郎新婦と同期、と次々入れ替わりで集合しては、何パターンもカメラマンが撮影していく中、Yのお兄さんもカメラマンの隣で、それはそれは楽しそうに一眼レフで撮影をしていました。私も一眼レフを持ってこようかギリギリまで迷っていたのですが、持ってこなくて良かった〜マジ場違いだった〜調子乗ってると思われるところだった〜カメラ女子で〜すアーティスティックなんで〜すみたいに思われるところだった〜ウオ〜あぶね〜結婚式に一眼レフを持ってきていいのは新郎新婦の二等親以内だわ〜と思いました。職場の同期でもある二人の結婚式なので、参列者のほとんどが職場の上司や同期で占められており、私は少しいたたまれない気持ちになりました。そしてなぜか、前に居酒屋で注文したお酒の中に、プラスチックの破片が混入していたことを思い出しました。

 次は、新婦のご友人お願いします、と声が掛かり、職場の同僚に比べ少ない人数が階段に集まる中、可能な限り気配を消しながら中学の同級生たちの後列に並び、こわばった笑顔で撮影を終えました。知り合いである以上、何か声を掛けたり、挨拶をしなくてはいけないけれど、どのタイミングで、何と言うべきかと頭を悩ませているうちに、ブーケトスへと移行しました。司会者によって、女性は全員徴集され、お願いだからこっちには投げないで、目立つし、拍手とかされるし、前に出て「嬉しいです」とか、「びっくりしました」とか言わなきゃいけないし、「あの暗いくせに膨張色着てるやや肥満、どんだけがっついてんだよ、見苦しい」と思われてしまう、否、皆さんに思わせてしまう、と誰も私のことなど視界に入ってすらいないにも関わらず、自意識過剰な思考が駆け巡りました。結果、ブーケは素敵なお嬢さんの元にとんで行ったのです。ブーケも喜んでいるに違いありません。良かったですね。

 それから小型のバスで、披露宴会場であるレストランに移動し、玄関に設けられた受付で会費を払いました。受付の机に、立派なご祝儀袋が並んでいるのを目にして、私は朝、飛行機の中で書いた手紙を取り出しました。忙しいYに直接手紙を渡すタイミングなどなく、ここで預かってもらうしか他に方法がなかったのです。

「お手紙を渡して頂けますか。」

とお願いすると、きらびやかなご祝儀袋とは比べ物にならないほどの貧乏くさいクラフト紙の封筒と、控えめに貼ったつもりが激しく主張しているパンダのシールに、受付の女性は少々困惑気味でしたが、私が決してふざけているわけではなく、いたって真剣であることが伝わったのか、預かってもらえることになりました。新郎新婦のプロフィール(お互いのことを何と呼び合っているか、など)と、座席表、料理の説明が載っている案内を受け取り、披露宴会場に入ると、ドアの前に新郎新婦が立っており、二人が出席者を出迎え、一人ずつ挨拶を交わしてから席に着くようなスタイルだったので、何か良いことを言うぞと私はやや気合が入っていました。フラ〜と二人の元に寄ると、ホスピタリティ溢れるYが先に声を掛けてくれました。

「新居はどう?」

Yは、式や披露宴に来た人たち全員に気を配り、そして感謝の気持ちを伝えたいと思うような本当に立派な人間なのです。

「ゴキブリ3回出たけどいい家だよ!」

かたや私はというと、この素晴らしい日に、初対面の旦那さんもいるというのに、たった一言でムードを台無しにしてしまうような人間なのです。それもわざとではなく、悪気なく考えなしにやらかしてしまう、一番厄介でタチの悪いタイプなのです。

「そういうとこだよ。」

とMに叱られてしまいました。私も咄嗟に答えてしまったとはいえ、反省しました。しかし嫌な顔一つせず笑ってくれる、Yは仏のような人間です。

 さて、Mと私は着席して気が付きました。まあそうだろうとは思っていましたが、やはり中学の同級生らと同じテーブルでした。しかも一人はすでに人妻で、苗字が変わっていました。とりあえず、しらじらしく挨拶をして、

「ウワ〜ヒサシブリ〜ゲンキ〜?」

と言ってはみたものの、

「元気だよ〜」

「ヘエ〜ソッカ〜」

「元気〜?」

「ウンゲンキダヨ〜」

「…」

「…」

そしてごく自然に、Mと私、そして他3人のふたつのグループに分かれ、まるで何もなかったかのようにそれぞれ歓談するのでした。

  いよいよ披露宴が始まり、遠くに新郎新婦が座っています。私は、今日ぐらいしか、この単語を発する機会はないと思い、

「たかさご!見てたかさご!すごい!たかさごに座ってる!たかさご遠い!たかさご!」

と Mに向かって連呼しました。

Mはというと、自分のグラスのシャンパンが、他の人より異常に少ないことをずっと気にしていました。

 

つづく

結婚式に行きました2

 悪寒と、腹痛の波に耐え、なんとか会場に到着し、私は涼しい顔で颯爽とバスを降りながら、心の中では肛門括約筋に「もう少し、もう少しだから、お願い」と祈りにも似たエールを送っていました。上着をクロークに預ける人々を横目に、もちろん化粧室へ直行です。中に入ると文字通り、化粧を直す綺麗な女性達。関係ありません。引け目など感じません。トイレは用を足すためにあるのです。私は半泣きで、個室に閉じこもり、腹痛と戦う間、ずっと音姫を延長し続けました。20秒おきくらいに、壁の装置に何度も手をかざし続け、メールでMが会場に着いたことを知り、先ほど鏡の前にいた女性たちは移動し、その後トイレに入ってきた人たちも、各々用を足して出て行き、それでもなお、私は苦しい表情で流水音を鳴らし続けていたのです。これから結婚式が始まるおめでたい空気に包まれながら、かれこれ10分以上せせらぎの音を堪能したのち、個室の扉を開けると目の前にMがいました。

「知ってる人全然いないんだけど…」

と居心地悪そうに、佇みながら、

「あ、今黒いって思ったでしょ、焼けてんなコイツって思ったでしょ!」

と何も言っていないのに、一方的に日焼けを気にしていました。私たちは化粧室を出て、式場が開くまで高級そうな椅子に座って待つことにしました。ちなみにMと会うのは3年ぶりくらいです。Mがワーキングホリデーに行ったり、式の数日前まで、東南アジアを一人旅したり、国内外を転々としていたため、久しぶりに会ったのですが、普段は温和なMの姪っ子が、ノートに猟奇的な言葉を書いていたことや、前歯に付いた口紅をMに指摘され、確かめるために取り出した鏡(ヨルダンの遺跡の写真がはめ込まれている)に関することや、中学生の時、Mが私に作ってきてくれたおにぎりの具がパインだったことなど、久しぶりとは思えないほど身にならない会話をしながら、同時に周りにいるちゃんとした大人達を見渡し、今この空間の中で自分たちが一番くだらない話をしてる自信ある、と思いました。そして、Mが私たち以外にも中学の同級生が数名いるのを見つけ、気まずさに震え上がりました。常に恋愛の話をしていたタイプの彼女たちとは、卒業後一度も連絡を取ることなく、10年以上の歳月が過ぎ、まさかここで会うとは…とあまりの不意打ちに、いかに気配を消すか、ということしか考えられなくなりました。

 式場が開き、参列者たちがぞろぞろと入っていきます。人の波に押され、同級生から逃げようとすればするほど近付いてしまいます。Mと顔を見合わせ、

「今、目合ったよね…」

「えっウソ…気まず…」

と小声でやりとりをしながら、左右に分かれた座席の左側に同級生らが流れていくのを確認し、私たちは右側に座りました。前列の座席の背に入っている、二つ折りのカードを開くと、賛美歌の歌詞と、外国人の牧師の写真と言葉が載っていたのですが、高級感のある、細かい凹凸が施された紙のため、牧師の顔がよく分からず、しんとした空間の中、分かんねえよとケタケタ笑ってしまいました。というのも、私は、Yの姿を見れば絶対に泣いてしまうと思っていたので、そうでもしていないと、とても落ち着けるような気分ではなかったのです。

 

 日本人の牧師が現れ、オルガンの音が鳴り、後ろの扉から新郎が入場しました。その時、初めてYの夫である男性をお目にかかったのですが、以前Yから婚約者(当時)は6歳年上と聞き、

「じゃあ干支でいうと向かいだね!」

と言うと、意味は理解できるけど、このタイミングでそれを言う必要はあるだろうか、と言わんばかりの腑に落ちない表情を向けられました。そんな干支でいうと向かいにあたる新郎が、前方の祭壇まで来ると、いよいよ新婦であるYが、お父様と入場しました。逆光から徐々に現れるドレス姿は、私が想像していた20倍くらい綺麗でした。そしてお父様の胸の内を想像すると、切ない気持ちがこみ上げてきて、涙が溢れそうになりました。しかし、式はまだ始まったばかりで、知らない人だらけの中(しかも気まずい同級生もいる中)、おいおいと泣くわけにはいきません。なんとかこらえて拍手に集中しました。そしてYは、お父様の元から離れ、新郎の左側に立ち、賛美歌斉唱に移りました。前方右側には歌のおねえさんたちがいて、美しい声で賛美歌を歌っています。お給料はいくらなのでしょうか。歌詞カードを目で追いながら、歌うフリをしていると、先ほど涙を我慢したせいで、鼻水がタラタラと流れてきました。すすって何とかなる量ではありません。どうしよう、どうしようと思っているうちに、二本の川は唇を通過し、あごへと向かいます。歌が終わり、頭を下げて祈る流れになってしまい、式場は静まり返っています。今すぐ誰にも気付かることなく、河川の氾濫を食い止めることは不可能と判断し、「文明はいつだって川と共に生まれるのよ」と自分を励ましました。右がチグリスで、左がユーフラテスでしょうか。それとも二本合わせてナイルのたまものでしょうか。お祈りが終わり、その瞬間、およそ0.2秒で、振り返りバッグを開けちり紙を取り出し拭きとる、という任務を成し遂げたのでした。ミッションインポッシブルのテーマ曲の最後の部分が脳内再生されました。

 その後、指輪の交換や、誓いのキスや、誓いの言葉などがあったのですが、とにかく牧師の話し方や、声量、動きなどにインパクトがありすぎて、もはや小慣れた舞台役者にしか見えません。先ほどまでドキュメンタリーだった結婚式が、モキュメンタリーに思えて、気持ちは一気に冷めてしまいました。教会での挙式は、女の子たちの憧れです。しかし、私にとっては違和感を抱かずにはいられないものでした。それとも私は、結婚式に夢を抱きすぎていたのでしょうか。リアリティを求めすぎていたのでしょうか。一応仏教徒である私は、かつて日常生活においてアーメンと口にしたことは一度もありません。しかし、結婚式では皆が西洋の神様の前で二人を祝福するのです。もちろんこれは私個人の感じ方の問題であって、二人を祝福する気持ちは大いにありますし、二人やご家族の幸せな瞬間に立ち会えてとても嬉しいです。そもそもこの式場を選んだのは新郎新婦なので、二人が満足ならそれで良いのです。ただ、世間一般の幸せの形に、いちいち疑問を抱き、素直にわあ素敵と感じれば良いものを、わざわざマイナスな側面ばかり見つけてしまう自分は、なんだか損しているなと感じたのです。私はなんて面倒な人間なのでしょうか。結婚おめでとう。

 

 

つづく

 

画像はZOZOTOWNで購入した、すぐにシワシワになる服と、実際にシワシワになった様子です。

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結婚式に行きました1

 2月の半ば、小学生の頃からの付き合いの幼馴染Yが北海道から東京に来たので、お互いやや忙しい中、なんとか会えることになり、私はウキウキしていました。札幌にいるときはいつも、Yと、中学の同級生Mと、私の3人でファミレスに集まって、本当にどうでもいいことを話すのが恒例でした。久しぶりに会っても、お互いの近況の報告というより、サラダバーのことや、最近見た夢のことなど、本当にどうでもいいことを話すのです。そして私はそれがとても好きでした。

 その日もいつものように、帰宅する頃には忘れてしまうようなことを話して、楽しく過ごすのだろうと思っていました。お店に入り、飲み物を注文し、Yが切り出しました。

「私、結婚するんだよね。」

まるでカミナリに打たれたような衝撃でした。あの、一緒に下校していたYが、一緒にSPEEDやプッチモニの振り付けを練習したYが、一緒にすごいよマサルさんを読んだYが、一緒に生徒会で遅くまで作業したY(会長)が、一緒に受験勉強したYが、私の知らないところでどんどん大人の女性としてキャリアを積み、成長し、男性と愛を育んでいたのです。私がブランコを漕ぎながらデカメロン伝説を熱唱していた間に(2013)、私が水風船のヨーヨーで遊びながら半袖短パンで道を歩いていた間に(2014)、Yはしっかりと将来や人生を見つめ、着実に自分の道を歩んでいたのです。

 とにかく、Yが幸せになるというのは、私にとっても大変喜ばしいことで、ましてや親しい友人から結婚の報告を受けたのは、それが初めてだったため、上半期下半期合わせても今年一番のニュースだわ、と思いました。そして、婚姻って何?と思いました。

「おめでとう!おめでとう!私も嬉しい!(でも婚姻って何?)」

という感じで別れ、後日、結婚式の招待状が届き、私は初めて、結婚式に出席することになりました。(以前、親戚の式に参加したことはあるものの、まだ中学生くらいだったため、お祝いの気持ちも薄く、あまり記憶にありません。)

 

 さて、結婚式に出席するには、服、靴、鞄が必要です。リクルートスーツで行けば、おそらく式場や披露宴会場のスタッフだと思われ、こっちグラス足りないんですけど、などと言われてしまう恐れがあります。ブラックフォーマルで行けば、いくら礼服とはいえ、不謹慎なウジ虫女と思われかねません。結婚式の服装のマナーを調べると、色や素材、形など、細かく決められているではありませんか。そしてそれらをパーフェクトに破っている、辻ちゃん紗栄子ユッキーナの情報。わざとか、というくらいマナー違反を網羅しており、見ていて気持ちが良いほどです。とりあえず近所のデパートにドレスを探しに行ったのですが、どれもプリンセス気取りのババアという感じで、店員さんの前で、思わず顔をしかめてしまうような服しかなかったので、結局ZOZOTOWNで若々しい服を買いました。でもそれも、すぐにシワシワになるような素材の残念極まりない服でした。

 

 式の前日、明日に備えて早く寝ようと布団に入ったものの、どんどんどんどん緊張してきて、結局ほとんど眠れなかったので、私は売れっ子アイドル、2時間睡眠は当たり前、むしろ忙しいことに感謝、ありがとうございます神様、と自己暗示をかけました。6時過ぎのリムジンバスで羽田に向かい、飛行機に乗りました。貧しい生活を送っている私に、結婚のお祝いにお金を包んだり、プレゼントを贈ったりする余裕はなく、もしそのようなことをしても、Yはとても気にするだろうと思い、せめてもの償いに、手紙を書くことにしました。飛行機は、搭乗が遅れている乗客がいるらしく、なかなか出発しません。私は、過去を振り返り、Yとの思い出を綴っていきます。『そう、Yとはあんなことがあったよね。』隣の席のおじさんは、ひじ置きに指をトントントントントントンしています。『Yは私にいつも優しくて、すごく尊敬しているし、』トントントントントントントントントン。『Yが家族になろうと決めた人ならきっとすごく素敵な人だね。』トントントントントントントントントン。その時通りかかったCAさんに、隣の席のおじさん改めジジイが

「何分遅れてるの?なんで?さっきあそこに立ってた男のせいか?え?」

と怒りをぶつけ始め、通路側に座る私は、クレームをつけるジジイと、困るCAさんに挟まれながら『ふたりならきっと何があっても大丈夫だね。』と手紙を書き続けました。年のせいで感情が抑えられないにしても、急いでるのはジジイだけじゃないし、CAさんは出来る限りのことをしているだろうし、そもそも飛行機は定刻通りに運行しないことの方が多いし、それをたかだか6分の遅れで文句言うくらいなら、様々な事態を想定してもっと早い便に乗れよジジイ、と間違えて手紙に綴りそうになりました。

 新千歳からJR、バス(乗客の95%が老人)に乗り継いで、実家に帰り、

「化粧下手になったんじゃない?」

などと母に軽くディスられながら準備をして、美容室で髪をセットしてもらい、着替えを済ませ、札幌駅に向かい、会場までの送迎バスに乗りました。バスの中には知らない人しかいません。一番後ろの端の席に座り、アウェイだし、みんな大人だけどきっと同い年とかなんだろうな、どうしよう、もっと緊張してきた、などと考えているうちに、どんどんお腹が痛くなってきました。会場までは、30分くらいかかるので、とにかくお腹から意識を遠ざけ、豊平川よさこいソーランの練習をする人々を眺めたり、車で直接会場に向かっている中学の同級生Mとメールをしたりして、やり過ごしました。

M「二次会行く?」

私「行くよ!お腹痛い!Mは?」

M「良かった〜私も行くよ!久しぶりに会えるの楽しみ!」

私「私も楽しみ!一緒に帰ろう!下痢しそう!」

 

 

 

つづく

 

画像は、結婚の報告を受けた日の私のツイートです。

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引越しについて3

 衝撃事実を伝えられ、思わず店内で声を出して笑ってしまったのですが、結局それから他の部屋をいくつか紹介してもらい(ネットに掲載されている物件は、不動産情報のほんの一部で、お店で契約されなかった残った物件が大半を占めているそうです。)、北向きは避けたいだとか、都市ガスがいいだとか、色々条件を出して絞ったのですが、Sさんが

「ではこちらご契約でよろしいですか?」

と当然のようにグイグイ来るので、写真が一枚もないペラペラな間取りだけ見て、向こう数年住む部屋をこんな短時間で決められないと思い、

「内見したいんですけど。」

とお願いしたところ、一瞬顔が曇り、

「こちらの部屋でご契約されるのであれば、まあ、最終確認という形で行ってもらう感じになりますね。」

と言われました。私としては、住むかどうか決めたいから内見したいのに…という気持ちでいっぱいでした。

「他の方は、みなさん内見されないんですか?」

と尋ねると、

「されない方がほとんどですよ。」

とのことで、都心の部屋探しはそうなのかな?不便かよ?と思いました。

 結局、必要書類を全て記入した上で、内見に行き、そこが気に入った時点ですぐに契約できるようにしておくことで話がまとまり、部屋を見に行くことになったのですが、地図を渡され、

「到着したら電話ください。でも期待しないでくださいね。値段相応の部屋ですから。築30年ですから。」

と、突然のネガティブキャンペーンが始まりました。そしてどうやら、一人で行くシステム?思ってたのと違うけど?都心の部屋探しはそうなのかな?え?という気持ちのまま電車に乗って、現地に向かいました。マンションの入り口の前でSさんに電話をかけると、

「メーターボックスの中にあるキーボックスのナンバーを言うのでそれで開けて下さい。」

と言われ、私はキーボックスという物体の存在を知らなかったため、箱なんてどこにもない!と必死に探しました。どこにもありませんという電話を何度もかけ、若干Sさんのイライラが受話器越しに伝わってきます。結局、大きめの南京錠の中に鍵が入っていると理解するまでしばらく時間がかかりました。

 部屋に入ると、ヤニが混じったような古い臭いが充満していました。そして、茶色く変色した壁に、殴って開けたような穴、窓の上部の壁には、手の形のシミがふたつあります。ホラーでした。灯りがつかないので、ユニットバスは何も見えません。Sさんに電話をして、状況を伝えると、

「壁紙は交換するので、別の階のリフォーム済みのお部屋も見ますか。」

と言われ、いや、見ますよ、え?と思いながら別室も見ました。脳がだんだん稼働しなくなってきて、壁紙が変わるだけで印象も違うし、なんだか疲れたし、もうここでいいような気がしてきた…もう面倒臭い…と思い、契約を決めたのでした。

 

 それから怒涛の物捨て週間が始まりました。私は物を減らすのが好きなので、苦ではありませんでしたが、半分以下の狭さの部屋に移り住むとなると、ベッドすら置けません。収納も一つもないので、どこかに詰め込むことも出来ません。とにかく鬼のように捨てまくりました。町内の皆様が寝静まった頃、両手に大きなゴミ袋を携え、ウロウロと徘徊する日々が続きました。

 荷造りは、友達が2人来て、手伝ってくれたおかげですぐに終わりました。私が詰めた箱は、全部やり直されました。食器の包み方も注意されたので、不器用をいいことに、全部やってもらいました。楽でした。

 引越し当日、昼食後の歯磨きのタイミングで業者のお兄さんが来たので、慌ててしまい、唾液が口から勢い良くジャッと出ました。お兄さんは見て見ぬ振りをして迅速に物を運んでいきます。私は部屋の隅にキュッと収まり、華麗な運びっぷりを眺めることしかできませんでした。物を運んだ後に出てくるホコリもあるので、最後まで掃除をしていたら、クイックルワイパーを積みそびれたまま、荷物を載せたトラックは先に出発してしまいました。仕方なくクイックルワイパーを手に持ちながら電車に乗って、新居へと移動したのでした。

 新居には友達が3人来て、荷ほどきを手伝ってくれました。私がもたもたとコートハンガーを組み立てている間に、みんなはテキパキと荷物を整理するだけでなく、部屋のあらゆる箇所を計測し、ここの隙間には収納を買ったほうがいいとか、ここに箱を6個置いたらごちゃごちゃがスッキリするとか、細かくメモしてくれているのでした。私の部屋なのにみんなが全部やってくれて、頼りになるな、すごいなと思いました。

 友達のおかげで、荷造りも荷ほどきもすぐに終わり、無事引越しが出来ました。寝具も照明もインターネットもすぐに使用出来たので、電波少年せずに済みました。持つべきものは友達です。

 翌日、東京ガスの人が開栓に来たのですが、

「メーターボックスの中に、マフラー入ってますけど、前の人が置いていったのかな。」

と教えてくれました。確認すると、本当に車のマフラーがぐにゃっと縦に入っていて、マフラーを外すということはつまり太いマフラーに交換するということで、内見の時見た壁の穴はやはり殴って空けたものだとしたら…私の中の名探偵が推理した結果、前の住人はヤンキー、ということで落ち着きました。私の新居は元ヤンハウスでした。

 

 そういえば、引越しの前日に不動産屋に鍵を取りに行ったのですが、店内の壁に貼られている、《私が担当しました!》と書かれた、客と担当者のツーショット写真の撮影をお願いされ、Sさんと一緒に写真を撮ることになったのですが、ほとんど誰も見ないとはいえ、ちょっと嫌だな、と思いながらも断れず、つられて普段はしないピースサインまでしてしまいました。このモヤモヤをなんとか主張してみようと思い、

「じゃあ私のカメラでも撮ってください!記念に!」

と強めにお願いしてみました。今までそんなこと言う客はいなかったのか、Sさんも、カメラを持つ女性スタッフも、戸惑いの表情が見られます。そうです。私が見たかったのはその顔です。よく知らない客に、何に使うのか分からない写真をお願いされた時のその顔です。

 その時の写真がこちらです。

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引越しについて2

 道民が寒さに強いのは誤解で、寒冷地域ほど建物は断熱仕様、街は地下歩道、暖房は強力なため、関東のじわじわ蝕まれるような寒さにベソをかきながら、容赦なく降り注ぐ朝の光と共に新生活二日目を迎えました。(最終的にカーテンが全て設置されるのはその年の師走のことです。)

 引越しの翌日といえば、役所や警察署などで面倒な手続きをさっさと済ませて、ゆっくり蕎麦でも楽しみたいものです。しかし、太陽の光で部屋が照らされ、次々と発見される気になる箇所。床の汚れ、壁の画鋲穴、浴槽の栓に付着した黒いカス、トイレの内側の古い汚れ、ウォシュレットのノズルの頑固な汚れ、そして部屋に散らばる謎のちぢれ毛。私は特別神経質でも几帳面でもありませんが、その部屋の様子を見ているだけで全身がむずがゆくなりました。台所の排水溝の構造が分からないので、ゴムの蓋を取り、中から筒を取り出してみました。その瞬間、勢い良く鳴らされるクラッカーから伸びるカラフルなフサフサのごとく、大量のコバエが飛び出しました。初めての一人暮らし、心浮き立つ新生活、コバエ爆弾。Welcome to the kobae house. その瞬間、私の目は闘う人間の目に変わりました。手続き関係を全て後回しにして、すぐさまドラックストアへ走り、洗剤一式を買い揃え、その日は手がガサガサに荒れるまで掃除三昧なのでありました。その後、ネットで注文していた家電や寝具が少しずつ届き、ベッドや棚を買いに行き、引越しが完了したのです。

 

 それから4年弱が経ち、二度目の引越しを考え始め、ネットで物件を検索していたところ、駅から徒歩8分、築7年、鉄筋コンクリート、バストイレ別、二階以上、室内洗濯機置場、敷地内ゴミ捨て場あり、南向き角部屋で家賃37800円という意味の分からない部屋が掲載されていて、意味が分からなすぎてとにかく理由を知りたいという衝動だけで、気付けば不動産屋に来店予約をしていました。

 その不動産屋は、以前行った不動産屋とは違って、街中のビルの中にあり、スーツに身を包んだ若い従業員の人たち、店内に流れるアップテンポなJ-POP、眩しく光る蛍光灯、とフレッシュさを前面に押し出した空間でした。担当してくれたSさん(私よりやや年上くらいの女性)に、早速気になる物件について話を聞くと、

「大家さんに確認したところ、あまりお勧め出来ないとのことで…特に若い女性は…」

と言われ、大家さんが勧めない部屋ってあるんですね、と思いました。殺人現場か?幽霊か?と想像をめぐらせ詳細を聞いて判明した理由というのは

・名前を書けば入居できるほど審査がゆるい

・故に外国人、生活保護受給者、精神病患者などが住んでおり、トラブルが絶えない

・特に、この部屋の隣に住む男性は一日中叫んだり、壁を叩いたりしてきて、それを承知で入居した男性も、部屋の外で顔を合わせた際に言いがかりをつけられ、口論になり、半年で退去した

ということでした。殺人だの幽霊だのドラマの見過ぎかよという発想しかなかったので、ヘビーな事実にうろたえるあまり、声を出して笑ってしまいました。

 

 

つづく

引越しについて

 3ヶ月前に引越しをして、多摩での生活にも慣れました。いい街です。前に住んでいた小田急相模原駅付近には、常に悪い意味でユニークな方たちが徘徊されていたので、それに比べれば多摩市はLOVE&PEACEです。

 一人暮らしを始めて、今年で5年目になるのですが、未だにポピュラーな引越しを知りません。特に物件探し、内見に関しては、やや変わったパターンしか経験ありません。

 最初の引越しは、実家のWindowsXPで見つけた物件の内見に行くところから始まりました。電話で予約した不動産屋は、おじさまとおばさまが営む、地域に根ざしたタイプの小規模なお店でした。特にお願いしたわけではないのですが、いくつか別の物件も提案してくれたので、それらを回ることにしました。車に乗って案内されるのだろうなと生ぬるいことを考えていると、おばさまが、おもむろに店の奥から自転車を引きずり出してきました。溢れそうな戸惑いを抑え、おばさまの運転するやたら速い自転車の後ろを、必死に自転車で追うのでした。いくつか部屋を見て回ったものの、どれも全くピンと来ず、最後に、ネットで見た目当ての物件に向かったのですが、その部屋は、まだ退去前だったので、住人のおじさんも立ち合いのもと、内見しました。おじさんは「どこでも見ていいからね!」「ちゃんと細かいところも見てね!」「冷蔵庫あげようか?」と親切かつフレンドリーにもてなしてくれました。私は圧にやられそうになりながら、そもそも内見の経験がなかったため、見るべきポイントも分からず、オロオロするばかりでした。とはいえ、おじさんが住む部屋は壁紙が一部、真っ青な空と雲の柄になっていたり、天井がブラックライトで光る仕様だったり、家具や家電がみっちりで、おじさんの個性が強すぎて、自分の胸高鳴る新生活が全く想像できませんでした。壁紙は張り替えてもらえる、ということを確認し、屋上に行き、美しい夕方の街並みを眺めていると、ついさっきま抱えていたモヤっとした気持ちと、おじさんの怪しい部屋の記憶が頭からごっそり消え、いつの間にか、春からここに住むんだ!と思っていたのです。

 札幌の実家から神奈川県まで荷物を運ぶなら、いっそ家具も家電も新しいものを揃えたほうが安いかも、と思い、荷物は3泊用のスーツケースに詰めて、飛行機で運びました。管理会社で鍵を受け取り、家まで車で送ってもらいました。もともと一人っ子で、小さい頃から両親共働きだったため、寂しさに対する不安は特にありませんでしたが、よくよく考えると、角部屋で大きな窓が二つあるこの部屋には、カーテンがありません。そして、ネットで注文した布団一式も、照明もまだ届きません。とりあえず、台所の小さな灯りをつけ、スーツケースから寝袋を取り出し、穴の空いた高校ジャージに着替え、寝床に着いたのです。しかし、4月初旬、カーテンのない窓からの外気、鉄筋コンクリート故、底冷えするフローリング、夏用のペラペラな寝袋、そして通気性抜群のジャージ、たくさんの奇跡が重なり、その日は一睡も出来ないのでした。寒さに凍えながら、この状況、電波少年みたいだなと思いました。



つづく


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